neputa日記

日常

【映画】アキ・カウリスマキ作「希望のかなた」を見ました

フィンランドの映画監督、アキ・カウリスマキの最新作「希望のかなた」を見てきました。

昨年12月に公開され見よう見ようと思いつつすっかり忘れていたところ、ツイッターのタイムラインで思い出し無事に見ることができ感謝です。

 

ひとりの監督作品をぜんぶ見る、ということはあまりないのですが、アキ・カウリスマキ作品については日本で発表されているものに限りますがひと通り見ました。彼が作り出す作品世界には、どこかにきっとある(あってほしい)と願うユートピアのように感じられ、私はとても安心感を抱きます。それがあまりに心地よく、すべての作品を覗いてみた理由かもしれません。

 

と言ってもおとぎ話ではなく現実社会が反映されている作品が多く、普遍的な人々の苦しみや悲しみが描かれています。しかし、彼の作品のなかで、人びとは自由に悩み人生を生きているように見えます。あるいは、そう生きていけるように助けてくれる人が現れます。そして、とても早いスピードで世界は変わっていくけれど、人類の歴史はさほど長くはないし、人間自体はいつの時代もそう変わらないものだよ、と語りかけてくるのです。

 

最新作の「希望のかなた」では、シリア人難民の兄弟が登場します。兄のカーリドはフィンランドで難民申請を出すも却下されてしまいます。身分を偽り、優しい人々の手を借りて、生き別れた妹を探しだします。しかしネオナチに暴力を振るわれたカーリドは大ケガを負います。彼は果たして死んでしまうのか、妹は無事に難民申請を許可してもらえるのか、結末は描かれていません。

 

この結末は現実世界を生きる私たちが、この先の未来に答えを出さなければならないのだと思います。「希望のかなた」にあるのは、果たして幸福なのか、あるいは不幸であるかは私たち次第だと問われているように感じました。

 

国家、宗教や民族など群衆の思想が、個々人の足元にある日常をも縛り付けようとする言論を耳にすることが多々あります。せめて目の前に助けを必要とする人がいる場合、思想、属性は関係なく助け合う世界を望みたいものです。「希望のかなた」では、手を差しのべるその瞬間、人はこんなにも美しいのだということを描いています。ひとりでも多くの方にこの作品が届き、互いに手を差し伸べ合う機会が少しでも増えることを願っています。

 

公式ホームページには、作品にも登場する犬の「コイスティネン」が、画面右下にかわいく顔をのぞかせています。

http://kibou-film.com

 

過去の作品について

Netflixアマゾンプライムなどのストリーミングでは見当たらないので、私はDMM.comのDVDレンタルを利用しました。自宅のポストに届き、返却も最寄りのポストに投函するだけで、とても便利でした。

 

ツタヤも同様のサービスがありますが、一部作品が見当たらず、DMMを選びました。月額固定で借りれる本数が決まったサービスを申し込んで、全作見終えたら解約すれば安く済みます。

 

※古い作品は2タイトルでDVD1本になっています。

 

 

山に暮らす生きものたち

先日2月7日の水曜日、近くの鷹ノ巣山に登ってきた。前週に降った雪がまだたっぷりと残っており、ギュッギュッ、と柔らかい雪を踏みしめながら歩くのはとても心地よかった。

 

慣れない都市部に多くの混乱をもたらした久しぶりの積雪。山に生きるものたちにも少なからず影響があったようだ。

 

雪のおかげで普段よりも彼らの足跡が辿りやすい。そこかしこに忙しく歩き回ったあとがある。大きなイノシシの足跡を見つけたときは警戒を強めた。

 

凍死した小さなモグラの死体がぽつりと転がっていた。寒くなる気配を感じてエサを探していたのだろうか。気がついたら地面が雪に覆われ巣穴に帰り着くことができなかったのだろうか。そんなことを想像し、その小さな亡骸の無念を思った。

 

さらに進むと羽と血と肉片が散らばった食事の痕跡を目撃する。その鳥はなぜに地面へ降りてきたのか。雪が彼の行動を狂わせたのか。しかし捕食者は運良く食事にありつき寒さをしのげたのだろう。

 

足を止めるとなんの音も聞こえない。静かな山道を夕暮れまで歩いた。ふもとの街の明かりが見えたとき、ホッとした気持ちになる。この安堵感に、やはり私は山に迷い込んだ余所者なのだと気づかされる。

 

それでも山の様子が気になる私は、山が好きな私は、時々お邪魔させてもらうよ。騒いだり汚したりしないから、君たちの暮らしをそっと眺めるだけだから、許しておくれ。

 

幸せを感じる瞬間に襲いかかる感傷

「幸せだな」としみじみ感じる瞬間に、「でもこれがあと何回あるのだろう」とか、「これが最後だったらやだな」などと、いま感じたはずの幸福感とは反対の思いに駆られることはないですか?

 

個人的に最近の例をあげると、飼っている小鳥が手のひらの中で目を細めているのを見ているときや、年末年始に両親と顔を合わせたとき。すごくホッとした気持ちで幸福感を味わっている、たしかにそういう感情はあるのだけれど、必ずと言っていいほどその直後、上記に挙げたようなことが頭に浮かぶ。

 

「本当は幸せを感じていないのでは」「刹那に酔っているだけ」「諸行無常原理主義なのか」などいろいろ考える。もしかしたら「幸せがコワイのかしら」なんてことを思ったりもする。ネットを見ていたら「幸せ恐怖症」なんて言葉があるそうな。深く悩むほどではないけれど不思議でしょうがない。

 

思えば物心つく頃からのクセのようなものではないかとも思う。子供の頃は、いざ楽しい時間が始まると、またたく間に終わりに訪れる悲しさの気配に気持ちが沈み、いよいよ終わりとなると涙をこらえるのに必死だった。放課後の遊びの時間から、年に一度顔を合わせるいとこ達と過ごすときなど、いずれも同じように、その感情はやってきた。

 

いまではさすがに泣きそうになることはないが、心の裏側に生じる気持ちはそう変わらないと思う。なんとか症候群のような名前があったりするのだろうか。脳科学か心理学にこういう類の研究はあったりするのだろうか。文献があればぜひ読んでみたい。

真夜中にドアを叩くロシア人と白いうんこ

18歳の頃のこと。私は英国ロンドンの西の外れに位置する小さな町で暮らしていた。住まいは今でいう「シェアハウス」に近いもので、一軒家を改装したとんでもなくボロイ建物だった。各階に4つの部屋がある2階建ての建物は、玄関入って右手前が物置のような場所で、他7部屋に住人がいた。私が借りていたのは1階の左奥に位置する日当たりの悪い部屋だ。各部屋に簡易のコンロが据え付けられていたが風呂とトイレは共同で利用しなければならない。

引っ越しの当日、建物の前にハトの死体が転がっていて面食らったのを覚えている。ボロイ家だったが私にとっては快適な空間だった。初めてのひとり暮らしだったこともあり、ハトの死体やひどいにおいのマットレスよりも、これから始まる日々への期待感が勝っていたのだろう。

 

しかし何日かすると看過できない問題に直面した。トイレを流さないヤツがいるのだ。もちろん「大」の方である。そしてさらに、その「大」が白いのである。「白いうんこ」だ。健康診断でバリウムを飲むと翌日に白いうんこが出ることを知るのはだいぶ後のことで、当時はまったくの予備知識なしに真っ白いそいつと対峙したわけである。

この流されていない事件は1度や2度では済まされず、そして毎回のように白かった。なぜ白いかはわからないが、そこは責めない。だが流さないのは家訓か宗教上の理由なのかわからないが非常に許せない思いがあった。はり紙を貼って様子を見たが効果はなく、2~3日に1度、私は「うんこをする前に白いうんこを流す」という非常に納得し難い不毛なルーチンを強いられることになった。

 

そんなある日、真夜中にドンドンとはげしくドアを叩く音で目が覚めた。即座に「ヤバい」と思ったが、なぜヤバいと思ったかは思い出せない。おそるおそるドアをあけると、そこにはロシア人の男が立っていた。何度か挨拶を交わしたことがある彼は、同じ1階に住むセルゲイ(仮名)という名のロシア人の男だった。年はたしか私の2つ3つ上だったろうか。すこし興奮気味の彼は目がギラギラとしていて怖かったが「何の用か?」と私は訊ねた。すると彼は、「パンプ!パンプぅ~!」と手を上下に動かしながら繰り返し言った。なんかよからぬ話の方に解釈しかけた私はなんとか持ちこたえ、「自転車の空気入れを貸してほしい」という相手のメッセージを正確に理解した。「なぜ朝まで待てないのか」「なぜ空気入れであのゼスチュアなのか」など疑問はあったが、私は「オーケー」と言い、空気入れを差し出した。

 

彼の部屋に置いてある自転車のタイヤに空気を入れるのをなぜか私は立ち会うことになった。空気を入れ終わると彼は私に部屋の隅にある洋服ダンスのところへ来るよう手招きした。そしておもむろに一番下の引き出しを開けて見せた。そこには洋服などは入っておらず、セクシーな女性が表紙のエロ本がポツンと置いてあった。「なんだ!?」と思って彼を見ると、ものすごいドヤ顔でこちらを見ているではないか。そして満足気に「ニヤッ」と笑った。いま思えばあれは空気入れを借りたお礼のつもりだったのかもしれない。真夜中にロシア人の男と日本人の男がエロ本をはさんで執り行ったささやかな交流は何とも異様なものだった。

 

和やかに「空気入れを貸しエロ本を自慢される儀式」が終わろうとするその時、ある考えが私の脳裏をかすめた。直感は確信に変わり、私はセルゲイにするどく言い放った。

 

「白いうんこを流さないのはお前だろ!」

 

一瞬動揺するかに見えた彼はすぐに落ち着きを取り戻し、再び「ニヤリ」と笑った。予想外の反応にそれ以上追求する気持ちになることができなかった私は、空気入れを片手に「グッナイ」と言いながら部屋を出た。果たして彼はクロだったのだろうか。もしそうなら直接警告を告げたわけで、この問題はこれで解決するのかもしれない。しかし何のことはない。うんこをする前に白いうんこを流す日々は私がその家を出る日まで続くのであった。

 

彼の名はセルゲイ(仮名)、ロシアから来た白いうんこをする男。

 

来世を想像するのは楽しい

今すぐリセットボタンを押したいほど現世に不満があるわけではないが、来世のことを考えるのは楽しい。

 

考えるだけならタダだし、誰に迷惑をかけるというものでもない。無限に想像をはたらかせ、なりたいものになってみるのだ。

 

なりたいもの候補には「人間」は含まれていない。鬼マッチョになりタンクトップ姿で砂浜を散歩したいと思ったら目指せば良い。現実に目を向ければ人間として今からなれるものに限界はあるかもしれないが、理屈の上では目指せばよいが成り立つ。来世という、新しく始まるニューライフを考えるにあたっては、ぜひとも未知なる生物で、ここはひとつ挑んでみたいと思うのだ。

 

ではどんな生物がよいか。

 

第一希望としては、「シャチ」になって大海原を駆け巡りたいと思っている。あの美しいフォルム、海洋生物の頂点に君臨する堂々たる風格、良いではないか!地球の表面積のほとんどが海であるからして、「海で最強」すなわち「地球で最強」と言っても過言ではないはず。地球で最も強い種族に属するというのはどういう感覚であるのか。オリンピックの金メダリストはシャチの気持ちだろうか。金メダリストはシャチなのだろうか。しかし同じ種族同士でなんやかんや上下関係とか大変かもしれない。シャチは社会性のある生物だから、ヘタすると人間社会におけるどろどろとした闇のような部分を抱えているかもしれない。これまで無邪気に「シャチサイコー」と考えていたが、何かの機会に真剣に再考する必要があるな。あくまで「暫定一位」とすることを宣言しておく。

 

これは文章に起こすことによって得られた気づきであり、一見、見もふたもない与太話を書き殴っているかのように見せかけて、実は大いに思索を深める機会となっているのだ。読んでいる人にはいい迷惑かもしれないが、私はKY(空気を読まない)スキルを高めようと邁進している最中なので気にしない。

 

シャチの話が長くなってしまった。

 

第二希望は「ネコ」。これはシャチに比べると共感する人も多いのではなかろうか。私は仕事に出かける憂鬱な気分のときに毎度のごとくネコになりたいと思っている。なんなら現世も明日あたりからネコでいい、ネコがいいにゃあである。しかしこれも、家ネコか野良ネコでだいぶ事情が変わってくる。うまいこと家ネコとしてのポジションをゲットできたとしても飼い主は果たしていかなる人物であるか、これは「人生」ならぬ「ネコ生」を大きく左右する問題だ。しかしこれは想像だ。きっとドでかいキャットタワー完備で一日二回チュ〜ルを振る舞ってもらえる極上環境をゲットする前提でここは話を進めたい。そうでなくてはならない。

 

と今のところはこの2つが突出して大きい来世希望であるが、最近この私の自由で心安らぐ夢想に水を差される出来事があった。 

 

同居人と来世について語り合っていた際、衝撃的な発言を受けたのだ。

 

「キミの来世はオキアミだよ」

 

オキアミ ー ウィキペディア

 

根拠はないにも関わらず「来世はラッキー!イージーモード」前提でしか考えてこなかった私にとって、この発言は衝撃きわまる一撃だった。

 

オキアミ、ハードルだらけの一生が約束されたようなものではないか。果たして私は孵化できるのか?卵の時点でアジやイワシに丸呑みされるのではないか?最後は佃煮か?

 

来世がオキアミになる可能性はゼロではない。(転生を否定する真っ当な指摘は受けつけない)であるにも関わらず、私は自分の来世がオキアミになるリスクについてまったく考慮できていなかった。「来世危機管理能力ゼロ」と指摘されても仕方がない。これは猛省しなければならない。

 

同居人から更に「来来世」についても宣告を受けた。

 

「オキアミの次はコピー用紙だから」

 

これはツッコミどころが多すぎてかなりの字数を割く必要がある。

 

私の認識があっていれば、「コピー用紙」は生物ではない。かつて「植物」という生物ではあったが、切り倒されてパルプとかになり色々みなさんがんばって作り上げた「加工品」のはず。しかもなぜ「コピー」という限られた用途の製品なのだ。メモ用紙や画用紙や半紙や付箋やダンボールなど紙製品はゴマンとあるのに、なぜ「コピー用紙」なのか。感熱紙じゃダメか?ワケがわからん。

 

なんの躊躇いもないハッキリとした口調で天啓のごとく告げられたが、これはあまりに「転生のルール」を無視した話なので、オキアミ言われたときのような動揺を見せずに済んだ。危ないところだった。

 

このように誤った来世の話が起こらぬよう、「来世ルール」は明文化しておく必要がある。正しいルールのもと健やかな来世トークをぜひみなさんも楽しんでみてはいかがだろうか。